ふあんとなかよくする。

おまたさんの徒然草。書評、日常、メンタルヘルス。

嵐の中の希望

その場にいられなくってさりげなく自分の部屋に行くふりをしながら逃げた。

身内がいう言葉は勇気をもらえるぶん、毒もひとしお。

母親は父親が私をひいきする分、妹をひいきしする。そしてそれを父親が妹にそうするように私にぶつけてくる。

妹も父親にひいきされる私が面白くない部分は持っているから、その毒は倍になる。

 

苦しいし、怒ってるし、ショックだし、混乱しているけれど、それをそのままぶつけたくはなかった。

それはこの家で常套句として使われている手段だし、それが自分にとって害をなす産物になるのは見えていたから。

だけどこの気持ちをどうしたらいいのか。過去の体験の中から必死に捜す。抑えるでもない、かといって不快な行動にも移さない。そんな方法はないのだろうか。今日掃除をしていて見つけた、マザーテレサの施設でもらったペンダントトップに必死に祈った。

 

「孤独に耐える力」というフレーズが浮かんできた。

そう、今「孤独に耐える力」を鍛える機会なのだ。

辛さはわかってもらいたい。甘えているように見えるけれど甘えている状態を良しとしているわけではない。自分で自分を起こしていける方法を考えていないわけではない。でも、それは自分にしか結局のところ「わからない」。

死にたかった自分が死ぬことをやめた。自分を大事にしながら生きようとしている。でも、そんな葛藤があったことさえ、周りは「知らない」のだ。

 

しがみつかなくていい。必死で求めなくとも、存在する自分を認めている。「わからない」「知らない」あなたに、私は気づいている。そして、私はあなたを愛している。私はあなたが大好きだ。

 

いつの間にかこんなといかけをしていた。大好きだと話しかけた瞬間、泣いた。初めて自分で自分に大好きと言ってあげられた。薬を大量に飲む前、私はいつも自分のことが嫌いだった。命を救われたけどどうしても職場に行けなくて、休み始めたときは、自分が嫌いではなくなっていた。でも、自分に好きだという言葉はかけてあげることができなかった。

 

わたしがわたしを大好きでいてくれれば、それでいい。

 

そこに気づいてくれてありがとう、という意味の涙だったと思う。そういえば本当に久しぶりに泣いた。辛いことがいっぱいあったはずなのに、嬉し泣きだ。めでたい。

 

そして余談だがもうひとつ。考えることが好きで、得意で、それが原因で止むのであれば、徹底的に考えて、病まない答えを見つけることもできるはずだ。考え方を逸らしたり、考えるのを抑圧するのでなく、考えることで幸せになれればいいのだ。今回も、自分の頭の中から引っ張り出した言葉を考えることで、自分を泣かせるほどの安心感まで導けたのだ。もちろん、認知行動療法とか、マインドフルネスを疑うわけではないが、自分には「考える」という方法だってあるのだ。

 

対処を反射的に変えられた自分を褒めてあげたい。また一つ苦労したね。ご苦労様。

 

 

かなりエネルギーを使ったらしく一気に疲れが出ました。

本でも読みながら眠りにつきます。おやすみなさい。